寅さん
寅さん
山田洋次監督さんとは悦子の一通の手紙から始まりました。
当時「男はつらいよ 寅次郎 紅の花」の映画撮影を控えていた「山田洋次監督」は、・・・・・・・
2006年10月10日大ファンの山田洋次監督さんと対談させていただきました。
山田監督メッセージ (2004年1月18日 朝日新聞から)
January 18, 2004
映画「男はつらいよ 寅次郎 紅の花」の脚本を変更して, 神戸でロケをした山田洋次監督に, くららべーかりーや被災地に寄せる思いを尋ねた。
石倉さんの手紙、印象的だったなあ。
当時、知的障害のある人を描いた作品「学校II」の準備を進めていたから。
阪神大震災に遭った土地でも、「無私」の取り組みをしている作業所があるんだなあ、なんてね。
石倉さんは2人とも無欲な人です。
くららべーかりーに行くと、何か透明な感じがする。
簡素な美しさ、というかな。
車いすで通う人が、ゆっくりゆっくり通ってくる姿に、生きていくってことを知りました。
障害者の幸福のために、必要なものしか求めない石倉さんがいる一方、イラクの戦争に100億、200億円といった税金が使われる。
世の中、なんという不公平だ、と思いますねえ。震災のあと、長田区を中心に寅さんに来て欲しい、という声が寄せられました。
何千人も亡くなったところで、そんなことできるわけない。
美女を追いかける男の話、喜劇でしょう。
でもね、思い直したんです。寅さんは、秩序やモラルを無視して暮らしている。
震災のような非常事態に力を発揮するんじゃないか、と。
八百屋さんでも首相でも接し方は同じで、おっちゃんはおっちゃん、なんです。
そこで脚本を書き換え、神戸のシーンをラストに持ってきた。
そんな頃なんですね、石倉さんから手紙をもらったのは。
菅原市場で寅さんと仲良くなる地元の店舗を考えていてね。
こりやいい、イシクラべーカリーにしようと思いました。
渥美清さんは、つらい少年時代を送りました。
体が弱く、人より早く死ぬ、と思って育った。
学歴のない悲しさも昧わった人です。痛みが分かるんだな。
撮影中は、「つらそうでした」こんな大勢の人が死んだなかで、芝居をしなくてはならないんですか、と何回か言っていましたよ。もうちょっと弾んでください、と監督の僕は言ったんだけども。地震に遭った人は、そんな人柄を見抜いていたのでしょう。
焼けた菅原市場でロケをしたら、娘が命を落とした所を寅さんが歩いてる、と喜んでくれた、と聞きました。
家が焼け、家族を失うといった本当に苦しい人は、笑いを求めていた。笑うことによって苦しみを突き抜ける、というか。
同情されたり、がんばれ、と言われることじゃなくてね。
笑い、といってもダジャレやギャグじゃなくて、共感の笑い。
人間って、愚かだなあ、というね。
あのとき、それができた渥美清さんは、大変な俳優だったんだなあ。
格好をつけたり、ほめられようとしたい、というところが全然ないのもよかつた。石倉さんは、「私」がないというところで寅さんと通じています。
48作の最後「本当に皆さんご苦労さんでした」だった。
このセリフはね、第一作で寅さんが同じように語りました。
アドリブで。
渥美さんが育った下町では、日が暮れると、そう言い合ったんだね。食べ物がつつましくても、住むところが粗末でも、いたわり合う暮らし。
あの頃の長田も、そんな人情に包まれていた。震災から10年目ですか。
神戸、そしてこの国は、くららべーかり-のような小さなパン屋さんが、金だけじゃないよ、とやってゆける街、痛みの分かる街、生きることに優しい街であって欲しい、と願っています。
映画「男はつらいよ寅次郎紅の花」シリーズ最後となった第48作。
岡山県津山市や奄美群島が主な舞台で、阪神大震災で被災した神戸市長田区の菅原市場でも撮影された。
神戸でボランティア活動をした寅さんが、ラストシーンで1年後の正月に神戸を訪れるという設定だった。このとき、寅さんと再会するのが、石倉さん夫婦がモデルになった「イシクラべ一カリー」の人々。
- 96年の正月に公開された。
長田の寅さん
月1回第4土曜日13時~13時30分 FMわぃわぃの番組「ネットワークながた」のコーナーで、「長田の寅さん」生出演。 インターネット、YouTubeで、全世界放送中